「心ひろびろとさわやかに生きん」

人間どのように生きるのがよいのかわからなくなることがあります。
鬱状態というか、朝からやる気が湧いてこないとき、いくら考えても、どのように生きるのが良いのかわからないときに、このごろは理想として「心ひろびろとさわやかに生きん」と、自分に言い聞かせます。
プライドなんか捨てて、バカと思われようが、損をしようが、小さなことにくよくよせず、さわやかに生きる。
なかなかそうはいかなくても毎日自分に言い聞かせていれば、また、あの頃のように、さわやかに生きれるのではないかと思っています。

小学校5年生の時に、幼稚園から一緒だった里見ちゃんという女の子が脳腫瘍の手術後に亡くなりました。
足の早い子で、生きていれば、おそらく陸上選手として、またスポーツ選手として大活躍したのではないかと思っています。
幼い時から、悩みを抱えた僕でしたが、彼女とたまにかわす会話で、妙になぐさめられていたのです。
彼女が生きていれば、ひょとして、彼女は僕の世話女房になっていたかもしれないと思うことがあります。
しかし、ずいぶん、彼女を泣かすような生活をして、僕自身はやりたい放題、彼女は、それでも笑って見守ってくれたかもしれません。
僕は、彼女の死がやはりショックだったのでしょう。彼女が亡くなった夜から高熱が出て、翌日の葬儀には、クラスで僕一人が欠席してしまいました。
それからは、毎月12日の月命日には、中学を卒業して地元を離れるまで欠かさず、彼女の墓参りをしました。

中学時代も嫌なことが山ほどあったのですが、彼女(里見ちゃん)の墓参りをして、そこで何もかも忘れて、一度死んだつもりで、日々をやりなおそうと思いました。
里見ちゃんが、死んだということで死というものが怖いものではなくなりましたし、逆に早く死にたいと思うようになっていましたから、怖いものが無くなったように思います。
何もかも捨ててしまったようなものだから、執着心がなくなり、すっきりしたのかもしれません。
悩んだら、里見ちゃんの墓の前で手を合わせていれば、すっきりした気持ちになる。
人から、馬鹿だといわれようが、生意気だといわれようが、キザな奴と言われようが、あの頃は、ほとんど気にしなかったですね。
しかし、思い切りよく生きていましたから、勉強もスポーツもよくできるようになり、知らない間に、プライドができ、偉くなりたい、もっと人から認められたいなどと欲が出てきました。
このあたりから、生き方を間違ったのかもしれません。

また人一倍不幸な出来事も経験したせいもあるのか、僕の60年の人生は、幸せ感の少ない人生だったと思います。
はためには平凡な生活を送っているものの、安心感というものがない。
何か不安な思いがします。
自分に執着しているのではなく、家族をはじめ愛する人々に執着するというか、世界中の様々な不幸に目をむけると暗い気持ちになります。
自分一人の幸せでは、幸せにはなれません。
できる限り、大勢の人々に幸せになってほしいと思います。
これは、執着です。苦しいのは、何かに執着しているのですね。その執着を捨てるとか、心の持ち方一つで、どんな状態でも、心の平穏は感じることはできるのではないかと思います。
一見、世界中には不幸な人であふれているようですが、本来、人間は、どんな生き方をしようが、救われているのではないかと思うようになりました。
この思いを持つようになって、少し僕にも安心感のようなものが、芽生えはじめました。

白隠禅師の坐禅和讃の冒頭は「衆生本来仏なり」です。これは、本来はすべての人間が仏様ということです。
阿弥陀如来も釈迦如来もすべての衆生を救う(救えないのなら悟らない)という誓願のもとに悟りを開かれたのですから、本来、すべての人々はすでに救われているはずです。
それが実感できなくて、悩み苦しむ愚かさです。
これが、一般的な人間の姿なのかもしれませんが・・・。

人間は悩むもの。悩みながらも生きていくもの。
迷いもない悩みもない極楽浄土は、さぞかし退屈でしょう。
迷いがあるから、悟りがあるので、悟れば迷いも悟りもなくなります。
迷っても悟っても、「衆生は本来仏」というひとことを信じたいものです。

さて、どろどろした、この世の中、いかに生きていくのか。
やはり「心ひろびろとさわやかに生きたい」ものです。
                         (野田)