「わが身を捨ててこそ」



南無阿弥陀仏と言えば、浄土宗の法然聖人、その弟子の浄土真宗の親鸞聖人という気がする。
南無阿弥陀仏の念仏は、法然上人に始まるようにも思っていたが、法然上人よりも200年前に生きた空也上人も忘れてはならない人のようだ。
口から南無阿弥陀仏の六体の仏像を吐き出している空也上人の像は、印象的だ。
年代がよくわからないので、法然上人の後の人かと思ってもいたが、実は、ずいぶんと古い方だったのだ。
空也上人は、特定の宗派に属さず念仏の信心を説いて歩いた僧だというこただ。
素性も教義もはっきりとはわからないようだし、空也上人のことは紀野先生の「わたしの愛する仏たち」という本で読んだくらいである。
空也上人は京都の街では、それなりに名前は知れ渡っていたようではある。
この空也上人に、朝廷に仕える千観内供という僧が、四条河原で出会ったたとき「いかにして後世を助からんことを仕るべき」と聞いた。
最初は、何も答えなかった空也上人であるが、あまり熱心に聞くので、一言、返事したらしい。
「何(いづ)くにも身を捨ててこそ」
これを聞いた千観内供は、感じ入ることがあって、たちまちに朝廷の職を辞して箕面山に身を隠し、やがては南無阿弥陀仏の念仏を広めるようになったとのこと。
 仏教に関わる本を読んでいると、非常に興味深いお話しが多い。
 
剣の達人と仏教の関わりも深いが、宮本武蔵は晩年肥後熊本の細川侯の元に仕えた。
ある時、細川侯が、宮本武蔵から見て藩内にこれはという人物はいるかと尋ねた。
武蔵は、少し思案して「一人、それらしき人物がいます」とこたえた。
その人物は、細川侯から見ても、誰が見ても大した人物には見えない。
そこで細川侯が直接その人物に会って、心当たりがあるかと聞いてみたが、本人も何もないという。
宮本武蔵ほどの男が、認めた男なのだから何かあるはずだと、強く問いただすと、「そう言われれば、一つ心あたりがあります。常日頃から、自分のことは据え物であると考えるようにしています」
とこたえたそうだ。
自分が、据えも物、置物であるのであれば、右に動かされようが左に動かされようが、打ち壊されようが意に介さずという覚悟であろうか。
そこには、わが身に対する執着はない。宮本武蔵と真剣で勝負しても、泰然と剣を構えたに違いない。
当然剣の極意の奥深きところには、「わが身を捨ててこそ」というものがあるに違いないと思う。
これが、自分のものにできたら、仏教も剣道も人生もかなり奥深いものになっていくに違いない。
 
この話しをすると、もう一つ話したくなる愉快な話しがある。
三重の伊勢に明治大正昭和を生きた村田和上という真宗の僧がいらしたのだが、何か社会的なことで問題が発生したのだろうか、極道というかヤクザな連中が寺に押しかけて村田和上をさんざん脅したらしい。
村田和上が、びくりともしないので「俺たちはなぁ、死ぬことなんか怖かねえんだ。覚えていやがれ」と捨て台詞をはきながら帰ろうとした。ただ、あまりにも寒い日だったので、手ぬぐいを取り出してほうかぶりをしたらしい。
その時村田和上は一言「死ぬのが怖くないような人も寒いのかい」と言ったらしい。
ヤクザな連中もぐうの音も出なかったに違いない。
 
わが身を捨てている人間は、やはり、違う。
完全に捨てきれなくても、わが身に対する執着をなくしていくということは大切ではないだろうか。
 

[わたしの愛する仏たち」水書房 空也上人 
 
 
 
 
 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。