「紫の法衣と黒の法衣」



 鎌倉時代の道元禅師の跡を継いだ懐奘(えじょう)という僧がいらした。懐奘は比叡山でも将来を期待される僧でもあった。
 この懐奘の母は「紫の衣を着るような僧ではなく、墨染の黒い衣を着て、裸足で街中を歩くような僧になってほしい」と言ったという。
 室町時代の一休禅師は、高貴な方から法要を依頼されて、紫の法衣が送られてきた。すると一休禅師は、法要には行かず、その紫の法衣だけを法要の場に届けたという。
 そして、現在の平成時代、ある禅宗の管長は、多くの管長が集まる定例の法要に、紫の法衣ではなく黒の法衣で出席したかったが、様々な理由で、それができなかったと書きしるしている。
 様々な理由もそれなりに想像はできる。
 たかが衣の色の話である。
 しかし、人間というものの姿の一面がよくよく現れているような気がする。
 
 私も、いつのまにか事なかれ主義になっているのだろうか。
 このメールを読む人には、寺院関係者が多い。
 生意気なことを書く奴だと、こらしめてやれと思う方もいらっしゃることだろう。
 この文章を書きながら、強烈な中傷を受けるのではないかと、一瞬の不安が脳裏をよぎってしまった。
 そのようにして、人はいつのまにか体制の中で、飼いならされて、大切なものを見失ってしまうのかもしれない。
 
 「我が身を捨ててこそ」と、思っているが、いつの間にか、自分の苦難や仲間の苦難を厭うのである。
 良寛さんは、政治の話しをすることを嫌っているし、教団というものもお好きではなかったようである。
 長岡藩主から寺を寄進するという話しもきっぱりお断りしている。
 一生、乞食坊主として、一間の部屋で過ごした方である。
 貧村を托鉢して歩きながら何も得ることがなくむなしくしている時、ある高僧に出会い、自分の中に宝があることを教わったという。
 それからは、自由な心で托鉢もできるようになったようである。
 宝は、なんであるのか。また良寛の悟りはどんなものであるのかは記されてはいない。
 それは、口にしたり書いたりすると壊れてしまいそうなほど微妙なものらしい。
 
 私達は、何でも学問すればわかるような気がするし、どうもうまく説明して証明していかないと、納得しない者が多い。
 ある時、紀野先生が、「尾てい骨に響くような話し」ということをおっしゃたことがある。
 頭で理解するのではなく、身体ごと、ドカーンと衝撃を受けるような話しをしたり、書いたり、聞いたりしたいものだ。
 
 
 これを書き終えようとする4月3日午後6時前、東京都の杉並区は、突然の雷(かみなり)の轟(とどろき)と雹(ひょう)である。
 何とも、今後の波乱の人生を予告するようでもある。
 これを、さあ、おもしろくなったと思うか・・・仏様におすがりするか・・・まあ、それなりに生きていくに違いない。
 
 
 
「わたしの愛する仏たち」 水書房  中宮寺如意輪観音