般若心経は、孫悟空でご存知の三蔵法師が天竺(インド)への旅の途中、助けた僧から教わったというお経である。
このお経を唱えて行けば、数々の災難から逃れることができ旅も無事終えることができるというお経である。
四国のお遍路さんは、このお経を唱えながら四国八十八か所を巡って行く。
私も唯一暗唱しているのは、この般若心経のみで、この数ヶ月は毎朝のように唱えている。
お経の読み方によると思うが、ゆっくりと読誦して5分、早く読めば、1、2分で読誦できる。
この般若心経の後半部分にサンゼーショブツ エーハンニャハラミタコ トクアーノクタラー・・・という言葉がある。
これは過去現在未来の仏様が、この上ない悟り、最高の悟りを開かれたのだから安心しなさいということらしい。
諸仏の悟りは、すべての生きとし生けるものが幸せになるということを保障している。
なのに、ほとんどのお坊さんは、みんなが仏になれる、みんなが幸せになれるとは言わない。
私の、考えが間違っているということなのかもしれない。
法華経には常不軽菩薩のことが書かれている。
常不軽菩薩は、誰に向かっても「あなたは仏様になられる方です。決して軽んじたりはしません」といって、どの人に対しても礼拝したという。
もちろん礼拝された人の多くは、自分のことを馬鹿にしているのか、気色の悪い奴だと、石をぶつけたりしている。
それでもすべての人に対して礼拝することをやめなかった。
このような話しが経典にもきちんと語られているのだから、やはり、すべての人には仏性があり、いずれは仏となるのであろう。
そのためには何度も何度も生まれかわらなければならないのかも知れないが・・・。
いずれは、誰しも仏となるらしいことがわかると、ひとまず安心だ。
世の中、救いようがなく、真っ暗闇のようにも思えるが、いやいや本当は明るくさわやかななものかもしれない。
せっかく、この世にいるのだから、苦難を最高の喜びとしたいものだ。
何しろ、仏になったら、苦難など何もなくなってしまう。
何もかもがすっきりわかりすぎて、やはり、つまらない。
あいかわらず、私は、極楽浄土は退屈でしようがないと思う人間でもある。
そのくせ、苦難に立ち向かい、おろおろして、不安にかられたりもするのである。
でもだんだん、おろおろも不安もなくなってくることが嬉しいような、そろそろあの世が近くなっているのかと、どうでもよいことに思いをめぐらしている。
わが師、紀野一義先生に6、7年前だろうか、先生の著書を持参してサインしてもらったことがある。
そんなこともちょくちょくあって、折に触れて、先生の言葉を思い出す。
あのときには「迷っても 悟っても 仏のいのちの中 死んだら また会おうな」と書いてあった。
なんだか、その時から、死んでもそれっきりではないな、また、先生に会うのかもしれないな、会っても恥ずかしくないように生きていかなければならないと思ったりする。

2011.1.6 谷中・全生庵近くの喫茶店にて 紀野一義先生 88才
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
自誓
一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
一、真理をもとめてひとすじに生きん。
一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。