南無(なむ)について    2017年9月

高校生の頃、南無阿弥陀仏の南無は、感嘆詞で「ああ」とか「おお」の意味であると、ある雑誌に書かれていたように思う。
それから何十年も、そうだと思っていたのだが、十数年前に南無は帰依と同じ意味なのだと知った。
同じ南無阿弥陀仏の解釈が「ああ阿弥陀仏様」から「阿弥陀仏に帰依します」に変わったのである。
帰依という言葉も、いったい何なのか、はっきりとはしないが、南無も帰依も帰命も、同じ意味の言葉であり、全身全霊で身と心をささげて、ついていきますということであろうかと思う。

我が師(紀野一義先生)は、例会や講話の初めに三帰依文を称えられた。
南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)
これを大きな声で、三度称えるのである。
これは我が師の師である、鎌倉の円覚寺の管長であった朝比奈宗源老師が、三帰依文を大切になさり、必ずお称えになったことによる。
理屈抜きで、この三帰依文を称えることが、我が師の教えを受けつごうとする者の使命でもあるように思う。
ところが、この三帰依文は、私のそれまでの解釈では、帰依する仏に南無(帰依)するという訳になってしまい、帰依が重複するのである。
文法的におかしいというか、何か間違っているのではないかという思いが脳裏をかすめたことがあるのである。
紀野先生のそばにいたのだから、さっさと質問すればよかったのに、うやむやに、ただ三帰依文を称えてきた。
それはそれでいいのだ、ただ先生が大切にされた三帰依文を称えればいいのだという思いも強くあった。
最近のインターネットは便利である、三帰依文を検索すると、確かに「南無帰依仏」は「帰依したてまつる仏に帰依する」というような訳が掲載されている。
ついでに南無について調べると、帰依と同じ意味であることが書かれているが、どうやら南無は、古代インドのパーリ語では、「お任せする」という意味があるということがわかった。
なるほど、そうかと思った。
南無(ナーム)には、お任せするという意味があるのである。
無阿弥陀仏も阿弥陀の名前を呼べば救われるから、アミダ様と呼びかけるのであり、アミダ様の教えに身と心をささげてついていくのであり、良いも悪いもアミダ様におまかせするしかないのである。
信心も大切ではあるが、信心を深めようとすると、それが欲望となり、人を苦しめる。
仏様にお任せするという心には、私心がないし欲がない。
ここのところが大切かもしれない。
南無帰依仏。
帰依する仏様にお任せします。
朝比奈宗源老師は「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に命をひきとる」と言われた。
紀野一義先生は「迷っても、悟っても、仏のいのちの中」と言われた。
私は、歳をとれば迷わなくなると思っていたが、還暦を過ぎても、生きるうえで、次から次へと問題が起き、その都度、心を痛めることが多い。
自分の無力を、思い知らされる。
しかし、精神的にはたくましくなったようにも思う。
一つの居直りに過ぎないかもしれないが、生きようが死のうが、どんな問題がおきようが、仏様にお任せすることにした。
無神経になって、何も感じないというのはつまらない。
悲しみも苦しみも、貴重な体験だと思う。
しかし、そこに長くとどまらないことである。
執着を捨て、仏様にお任せで生きていくのもいいものかもしれないと思うようになったのである。 
南無帰依仏。
南無帰依法。
南無帰依僧。
 





「わたしの愛する仏たち」 水書房より  興福寺須菩提



今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。