良寛さんについて     2017年10月

昭和30年代、良寛さんは、私が小学2、3年生の国語の教科書に「たけのこ」や「かくれんぼ」のお話しが掲載されていた。
子供達とかくれんぼして、隠れた納屋で寝込んでしまったら夜にになっていたというお話しと、
たけのこが生えてきたので、縁側の板をとってやり、軒下の板もとってやったというお話しである。
「天上大風」の子供が書いたような書も掲載されていた。
私と同年代の人は、そのことを覚えている人も多いのではないだろうか。

良寛さんは、子供が好きで心やさしきお坊様と記憶していた。
私が二十歳のとき、たまたま書店で良寛さんの漢詩の詩集を読んだとき、私はどきりとして、その詩集を胸に抱きしめた。
「私は子供らと手まりをつく。村人たちは、そんな私を笑って通りすぎて行く。村人には、私の、この気持がわかるだろうか。私は、ただ手まりをつくだけ。ひいふうみいよういいむうなな・・・と」
(これは私の意訳)私は、良寛の孤独を感じたようだった。
お金のない私が、良寛の分厚い漢詩集を買い求めて、早40年、その詩集は、今でも、ときおり、私の枕元に並ぶ。
東京の中野坂上のふもとにある古くからの曹洞宗の寺の前を歩いていた時、良寛さんも、この道を歩いたかも知れないと思ったとき、風が私の身体を優しく過ぎ去っていった。
出雲崎、柏崎、国上山と良寛さんの歩いた道を歩き、木村家の近所の浄土真宗のお寺で良寛さんの墓を見たときには、お墓がまぶしく光り輝いていた。
良寛さんには不似合いに、人の背丈を越え、巾が1メートルもあろうかと思われる1枚岩を目にして、私は照れ臭いようなとまどいを感じた。
あれは、なぜなのだろうか。
 
良寛を好きだという人は多い。
わが師(紀野一義先生)も、良寛さんが大好きで、何度も、かの地を訪ねている。
先生によれば、良寛が友の有願を訪ねて歩いた中ノ口川に桃の花が今も美しく咲く場所があるとのこと。
できれば、一度その地を歩いてみたいものだ。
先生にその場所を聞いたのだが、ただにっこりとされただけだった。
自分で探すものだよ、ということだったのではないかと思っている。
 
数年前、先生が亡くなって間もなく、良寛を好きであり仏教学者であるという人間が、悪意を持って、紀野先生への批判を書いていた。
私は、激怒したけれど、その彼は、良寛さんの何を好きだというのだろうか。
 
いつか彼が、私の間違いであったいうことがあるのであろうか。
私は、時々、それもだんだんと遠い昔のことのように、この怒りを思い出す。
生きていれば、好きなものと嫌いなものがある。

良寛さんも、ある学者が嫌いであった。その学者、高名な学者にも議論をふきかけ、相手が返事をしなければ、自分の方が上だと思っていたらしい。風邪で寝込んだ庄屋さんの家で、気を使って良寛さんの周りを屏風で囲ったのだが、その屏風は嫌いなその学者の書であった。
翌日、その屏風に気づいた良寛さんは、風邪が治らない原因がわかったといって、庄屋さんの家をそそくさと出て行ったそうだ。

良寛さんにも、確かに好きな人、嫌いな人はあった。

良寛さんは、道を歩いていても、時々、ひょいととび跳ねたという。
一生懸命咲いている野の花を、踏みつけては可哀そうだと、とび跳ねたのだ。
 
そんなに優しかったら生きずらくてしようがないとも思う。
それで死ぬなら死んでもかまわないのが良寛さんだったと思う。
 
その身を仏様(縁)にまかせて、良寛さんは、そよ風のように生きた。
 
私も、良寛さんを見習って生きていきたい。












今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。