良寛さんについて(補足)     11月


先月、良寛さんについて書いたところ「良寛は、生活の糧はどのようにして得ていたのか」等、質問を受けました。
良寛さんは名主の家の長男坊として生まれています。一族は大名に金を貸すほどの豪商もいました。
良寛は名主見習役をしていたときに出家しています。
今でもそうでしょうが、誰でもが出家してお坊様になれるわけではありません。
貧乏人は出家することもままならないところがあろうかと思います。
このような裕福な出自を肯定的に思う人、否定的に思う人、反発する人、人様々のようです。
良寛さん自身は、自分のことはほとんど人には語りませんが、逸話や漢詩等を通じて、良寛さんの生活を想像することはできます。
 
越後に帰ってからは、海辺の船小屋、五合庵、乙子神社、木村家の木小屋で一生を終えています。
長岡藩主から寺を寄進するという話も断っていますし、寺に住んで生活はしていません。
五合庵も乙子神社も国上山の山中にあり、簡単には訪問できる場所ではありません。
良寛自身も晩年は腰が弱り五合庵から、少し下った乙子神社に住みかを変えています。
最晩年は、木村家の木小屋を改築した小屋で一生を終えています。
この小屋は民家の中にありますし、すでに良寛さんの名声は広まっていましたから多くの人が訪問したと思います。
たぶんこの頃だと思うのですが、良寛のお世話をしていた若者に「ひとがくるとうるさくてかなわない だが おまえのことではない」と書き与えています。
 
ところで、衣食住はどうしていたのかということですが、ぼろぼろの墨染めの衣一着か二着、冬は綿入れ、布団、筆と墨とすずりと紙、書物数冊、托鉢の鉢と頭陀袋と手まりを所有してというところでしょうか。
良寛さんが、みすぼろしい姿なので盗人と間違えられて生き埋めになりそうになったこともあります。
漢詩の中にも、ぼろぼろの墨染の衣、空腹を感じる日々も多いことが書かれています。
こんなときにも、良寛は幸せだと書いています。
「ぼろをまとい貧しく空腹でもあるが、自分にはお釈迦様と二十八代続いた祖師方、達磨大師に始まる禅宗六祖までの祖師方が身近に友のようにいらっしゃる」という詩の一文があります。
考えてみれば、釈迦如来も、達磨大師も六祖慧能も、衣1枚をまとい、時には空腹を感じるような質素な生活でした。
 
五合庵に住んでいたころは、「翁がときおり訪ねてくるだけだ」というような詩の一文もありますから、良寛のことを心配して、時々、食べ物を届ける人たちもあったことと思います。
 
晩年のことと思いますが、味噌がほしいとか、いんきんの塗薬がほしいとか、仲のよかった庄屋に手紙を書いています。
贅沢はほとんどしていませんが、お酒もお好きでたまには飲んでいらっしゃいますし、盆おどりも大好きでいらしたようです。
清貧ではありますが、自然な生活を感じます。
 
良寛は、誰に対してもおそらくは仏教(仏法)を、言葉ではほとんど語らなかたように思います。
しかし、その良寛の姿、存在が人々の心に何か美しいものを伝えたのだと思います。
 
残念なのは、良寛の悟りの世界がよくわからないし、それは良寛自身も口に出して言えば、壊れてしまいそうなものだということです。
玉島円通寺の国仙和尚から印可されても、円通寺の住職にはならなかったのはなぜでしょうか。
国仙和尚は、住職になろうとしない良寛を思いやったのでしょうか。
わざわざ歴代の住職が住んでいた庵と畑を良寛に与えるという文書を残しています。
しかし良寛は国仙和尚が亡くなると、いずこえともなく旅に出て、その後10年間位はまったく消息不明です。
国仙和尚の跡を継いだ円通寺の住職は、後に曹洞宗本山である永平寺の住職になっています。
その頃、曹洞宗は総持寺と永平寺で、曹洞宗の本山がどちらであるかということで、幕府に訴えを起こすほどの争いをしています。
永平寺に良寛についての記録が残ってれば、興味深いのですが・・・。
 
良寛の漢詩を読むと「世に名僧といわれる僧に会って、問答してみるとまだまだである」という一文がある。
そのほかにも、僧に対する厳しい批判もある。
いつの世も同じだと思わずにはいれない。
だが、良寛には有願という僧である友もいた。
亀田鵬斎は有名な書家であり儒学者であるが、良寛に意気投合しすっかり感化された。
江戸の川柳として「鵬斎は越後帰りで字がくねり」と流行ったらしい。


 中央公論美術出版 良寛の書より