誰しもいずれは死んでいく   2018年1月


テレビアニメでもおなじみの一休さん(一休宗純)は、正月早々、杖にしゃれこうべ(ドクロ)をつけて「御用心。御用心。」と大声で街中を練り歩かれたそうである。
幸せな人も不幸せな人も、金持ちも貧乏人もいずれは死んでいく。
しかし、この死について普段考えることは少ない。
死ぬ直前で、死について考えても間に合わない。
私自身は、死ぬときは死ぬのがいいと、いつ死んでもいいという覚悟はしているつもりだが、いざとなればどうなるのかわかったものではない。
1月8日は朝から激しい頭痛と吐き気におそわれ、熱もないのに汗びっしょりとなった。
どうもおかしいと思って血圧を測ったら、下が100上が190と経験したことのない高い数値だった。
この1年血圧はまったく正常値だったし原因不明である。
脳の血管が切れて出血でもしているのかもしれなかったし、心臓もプツンと止まるかもしれなかった。
このまま死ぬのかもしれないと思ったのだが、さほど死に対する恐怖感はなかった。
1日寝ていたら、何とか血圧もさがり頭痛もおさまった。
そろそろ身辺整理もしなければならないのかもしれない。
まだ娘が大学生なので、一番お金がかかる時期なのだが、最近同居している娘にいざとなれば働きながら大学に行くように話をした。
娘は娘で悩みと大きな不安を抱えていたようで、親が離婚したあとにひどく心が傷ついたことがあったのに、父親の私がまるで理解してくれなかったと泣かれてしまった。
娘は東京芸大の学生である。裕福な家庭の子女が多いことと思う。また、経済的な援助なくしては、芸術に専念もできないであろう。
まるで無頓着で貧乏な私は、今まで娘の繊細な心を傷つけて、娘は泣き叫びたいことも多くあったのであろう。
でも、苦しみ悲しみも貴重な経験ではないだろうか。
いつか、おとうさんありがとう。おとうさんの生き方が、今の私を作ってくれたと感謝されるような日が来ることを祈っている。
 
 
 
「人間いかに生きていくか」という問題は、なかなか結論が出ないようである。
過去現在未来の如来が、すべての存在の幸せを願って悟りを開かれたのだから、すでに私たちすべての存在は救われているのではないだろうか。
その思いは、だんだんと深くなっている。
衆生本来仏なり。
娑婆即寂光土。
大地をこすれば黄金となり、大海をかけば甘露となる。
 
衆生は、如来がいらっしゃることを知らない。
本来衆生が仏であることを知らない。
私も、その衆生の一人である。
 
どうやら、悟りとか幸せは、自未得度先度他の心かけが大切なのではないかと思うようになった。
自分の幸せより他人の幸せを心から思えるようになったら、そこには美しい世界が開けてくるのではないだろうか。
新年早々、わけのわからぬことを書いてしまったが、今しばらく生きるのであれば、心の底から大勢の人の幸せを願える人になりたいものだ。



 

四谷の安禅寺での例会の後で(紀野先生84歳頃)

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。