皆、いずれは、極楽浄土(天国)に生まれる      2018年2月





仏教各宗派が共通して称える四弘誓願の一番最初にある誓願は衆生無辺誓願度である。

すべての人々を悟りの世界に導き、幸せにしようとの願いである。

阿弥陀如来も釈迦如来もこの誓願のもとに悟りを開かれた。

これから現れる弥勒如来は、すべての人々が悟ったあとに現れる如来だと聞いたことがある。

いずれにせよ、人々はいずれは救われ、悟り、幸せになる存在であるようである。

この現実世界を見ると、そんなことはありえないように思える。

すべての人々に仏性があり、すべての人々が悟るなんていうことは信じがたい。

ひょっとすると、死んだ後のあの世は悟りの世界であり、誰もが極楽浄土や天国に生まれるというのであれば、なるほどと思わないわけでもない。

父親というものは子供に厳しいものである。

くそオヤジと思っている子供も多いことだろう。

しかし父親は子供の成長を願って厳しくも叱るのである。

甘いだけの父親では、子供は立派に成長しない。

キリスト教の信者が、神のことを父上とかお父様と呼んでいるのを聞いたことがある。

キリスト教では、善悪がはっきりしており、人々は裁かれる立場にあり全員が救われるという教えはないようである。

しかし「神とは愛である」ともいう。

ならば、本当は、すべての人々を悔い改めさせようとしているだけで、本心は衆生無辺誓願度ではないかと思う。

仏教には本来善悪がなく、すべては縁によって生じ、まるで実態というものがないかのようである。

円覚寺の管長でもあった朝比奈宗源老師はキリスト教も仏教の中の一つというお考えであったようである。

仏教でも極楽と地獄があり、悪いことをすれば地獄に行くとは教える。

でも一つ、つっこんで仏教の教えを聞くと、善も悪もないという。

朝比奈老師は世界の宗教者が世界平和のために協力することに力を尽くされた方でもある。

朝比奈老師は「人は、仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に命をひきとる」とおっしゃたようだ。
仏心とは愛とか慈悲そのものではないだろうか。

私は朝比奈老師におめにかかったことはない。

写真で知る限りでは、無骨でびくともしないような面構えである。

その朝比奈老師が、晩年わが師である紀野先生に「紀野さん、生きるってことは大変だな」とおっしゃたことがあるそうである。

どうやら晩年の朝比奈老師にも予期せぬ大変なこともあったようである。

この世にある限りは、病気にもなり愛する人も失い事件事故にも遭遇することもある。

生身の人間であれば、悲しみや苦しみをいつまでも経験することになる。

そこで人は忍耐と勇気を培い、あとのどうしようもない部分は神や仏にまかせるしかないのではないだろうか。


    朝比奈宗源老師

 

私は、天国や極楽は退屈でしようがないと思うのであるが、疲れたときには、どうせあの世に行くのだから、もうしばらくの辛抱だと思うようにしようと思うのである。

おまえのような人間は、極楽浄土などには行けないという人もいるだろう。

それは人それぞれである。

私は、いずれ人は皆、極楽浄土に生まれると思うのである。

 

あの砂漠でさえ何年かに一度豪雨に見舞われると2ヶ月たらず、あたり一面ピンクの花で埋め尽くされることがあるのである。

砂漠のどこに花の種があったというのであろうか。

人間のどこに仏性があるというのであろうか。

やはり、ないようでもあるのである。

 

いつか、この世が、たちまち極楽浄土となるやも知れず・・・・。

   2017年8月 南米チリのアタカマ砂漠に咲いた花




今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。