仏は、心を耕す    2018年3月


ずいぶん前のことになるが、中村元先生の「ブッダのことば」(スッタニパータ)を読んだことがある。
その本の最初のあたりに書かれている言葉である。
ブッダがバラモンである農夫に食を乞うたところ、「私たちは田畑を耕して、食を得ている。働かないものに、食を与えることはできない」と拒絶された。
ブッダは「私も働いている。私は心を耕す者である」と応えている。
そのバラモンは、ブッダのその言葉を聞いてたちまちにブッダに帰依したはずである。
 
なるほど心を耕さなければ、いくら仏性があっても、その仏性は芽を出さない。
とうぜん仏教の経典は、その心をどう耕すかということは書かれている。
経典も多いから、どの経典がよいのかさっぱりわからない。
しかし、どの経典もすばらしい教えであるのだから、特にこの経典が一番よくて、この経典は駄目だというようなとらえ方はしてはいけないと、良寛さんは言っている。
ブッダの教えの一つ一つがすばらしく、学ぶべきことは甚大である。
宗派も様々で、新興宗教になると、その実態が不明なところが多い。
何を信じていいのか、さまよっている人も多いことかと思う。
しかし、道を求める気持ち、真理をもとめる気持ちが強くしっかりとあれば、いつかは良き師に巡り合う日がくるに違いない。
やはり、切に思い強く願う気持ちが大切でもあるようだ。
人間として間違ったことを切に思うと苦悩の始まりだが、人間として正しいことを切に思うと喜びとなる。
だから苦悩している人は、何か心の持ち方に間違った何かがあるはずだ。
一番の原因は、利己的な欲にからまれているのではないかということである。
えらそうなことを、書きしるしているが、自分の心というものをしっかりと見つめることの大切さを感じたのは、ごく最近のことである。
私の62年の人生を振り返ったとき、あまりにも自分の心というものに無頓着すぎて、何度も何度も同じ苦悩を繰り返してきたように思う。
はっきり言って、苦悩は心の問題である。
身体的な苦痛さえ、心の問題であるといえるかもしれない。
だから、この心を耕して、安心と幸福感に満ちた人にならなければならない。
仏教は、心を耕し、人々を幸せにしてくれる、すばらしい教えに違いないという思いは、日増しに強くなっている。





 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。