2018年5月   お釈迦様の最高の喜び・・・・

秦の始皇帝は、中国を統一した初めての皇帝で、栄華をきわめたことは世界有数ではないでしょうか。
しかし、どれだけ栄華をきわめようが、死をまぬがれることはできません。
不老長寿の薬を求めて、始皇帝の命をうけた徐福が日本にもやってきたようです。
一人死ぬのが怖かったのでしょうか、臣下も殉死させ広大の陵墓も築きました。
それで死後、始皇帝は少しでも幸せになれたのでしょうか。
どう考えても、あの世があったとしても、地獄に落ちるか、生まれ変わってネズミにでもなったかもしれません。
まあ、いずれは始皇帝もいずれかの仏様がお救いくださるのであろうとは思います。
 
普通の人間は、権力を手にすると、更なる権力を欲します。
財を得ると、更なる財を欲します。
名声を得ると、更なる名声を求めます。
不思議なもので、なかなか満足で終わらない。
権力や名声や富を得て、結局何になるのであろうとは、なかなか人間は考えないようです。
 
お釈迦様は老いることもなければ死ぬこともない不老不死にいたる道についても述べています。
スッタニパータという経典には、繰り返し、不老不死に至る方法について述べられています。
難しい教義や理論ではありません。
簡単に言えば、あらゆる欲を起こさないこと、執着しないこと、これがきちんとできれば、その人は、老いることもない、また死ぬこともない境地にいたるというのです。
確かに、お釈迦様は、シャカ族の王子の地位を捨て、親や妻や子供も捨て出家しました。
その一生は、様々な欲にとらわれることなく、何事にも執着はなかったようです。
衣1枚とその日の食事さえあれば足りる生活です。
おまけに苦行も否定されました。
私たちは何でも、苦しい修行や努力をしなければ、ものごとが成就しないように思います。
苦しい修行や努力によってのみ、幸せを得ることができるように思います。
しかし、そうではないということです。
何事も執着すると苦しみになります。
執着や欲はよくないと、お釈迦様は繰り返しおっしゃっているのです。
しかし、まるで欲や執着がないということは、なかなか難しそうです。
ここは、できる限り、欲や執着を捨てることが、喜びに満ちた、すばらしい幸せにいたるのではないかと書いておきます。
 
お釈迦様には、欲がなかったのかというと、お釈迦様の晩年でしょうか、弟子のアナンに「私にも欲がある。最高の喜びを求めている」とおっしゃたそうです。
最高の喜びとは何でしょうね。
お釈迦様の最高の喜び・・・・。
こつこつ生きながら、喜びを感じる人生を送りたいものです。
 
 
 
 社会福祉法人 「かれん」の作品ぺーじより   http://karen.or.jp/?page_id=50








 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。