2018.09  「悟りと如来」

 
迷いがあるから、悟りというものがある。

悟りというものがあるから、迷いというものがある。

迷いも悟りもないというのが、求めなければならない本当の世界かもしれない。

白隠禅師は、「生涯で大悟が三度、小悟は数知れず」とおっしゃたそうである。

白隠禅師の悟りというものは一度悟ったら、それでおしまいということではないようである。

道元禅師の場合は、悟ればこうなるだろうとあらかじめ考えていたような悟りは大した悟りではないという。

本当の悟りというものは、まったく想像もつかないようなもので、本当に悟ったら迷いなどというものはなくなると断定していらっしゃる。

悟りにも、レベルの違いとうか、かなり違いがあるようである。

一度悟ったと思っても、それだけではなかなか完成したわけでもないようである。

私も62歳で、あと何年生きられるのか知らないが、どうやら迷いのない悟りを得ることはできずに死んでしまいそうである。

また現代の世の中で、大悟しているもの、迷いなき道元禅師のおっしゃるような悟りの境地にあるものがいらっしゃるかどうかは、はなはだ疑問である。

我師(紀野一義先生)など、ひょっとして、道元禅師のおっしゃるような迷いのなき悟りの境地にあったのかもしれないが、私などの思いがおよぶような世界ではないので定かでない。

ましてや我師はたとえ悟っても、悟った人間らしく生きることはお好きではなかったようである。

良寛も、悟ったからといって、それらしくふるまうのは、人間らしくなくて嫌だと言っている。

たとえ悟ったとしても、人間らしく涙を流し、時には笑うような人間でいたいということであろうかと思う。

良寛の漢詩などを読んでいると良寛にも確かに言葉にできない悟りの世界があったようである。

我師にも、言葉にできない悟りの世界があったのではないかと思うが、やはり、それは今の私にはわからない。

 

我師がお亡くなりなる2、3年前のことだが、良寛の漢詩集にサインを求めたら「迷っても悟っても 仏のいのちの中 死んだらまた会おうな」と書いてくださった。

どうやら迷ってばかりの私も、仏のいのちの中にいるようである。

誰でも、仏の命の中にいるのであろう。

悟りだ迷いだ、善だ悪だといってもたかがしれている。

お釈迦様が仏法を説かれてざっと2500年、地球の歴史や宇宙の歴史の中で、ほんの一瞬を過ごしているのに、なぜこうも小さなことで悩むのか。

でも悩むから人生が味わい深くなるのかもしれない。

 

スマイル仏壇店に二度三度と買い物に来てくれる女性がいた。目があうと、いつもにっこりしてくれる。

ところがある日、彼女が突然涙を流して泣き出したのである。

実は彼女は20代の最愛の息子を亡くしたばかりであることがわかった。

「あなたなら、私の気持ちがわかってくれるかも知れないと思ったら、涙が出てきてしまって・・・」とのことだった。

なぜ、罪のない心優しき若者が20代の若さで亡くならなければならないのか。神や仏もないとは、このことである。なぜ、このような試練がやってくるのだろうか。

私は、そのとき、彼女に何を話したかは覚えてはいない。彼女がまた笑顔を取り戻してくれたことは覚えている。

我師が話されたことがある。幼くして、また若くして死ぬ人は、如来使(にょらいし)だそうだ。仏様の使いで、この世にやってきて、私たちに何かを伝えているのだそうである。

私もずいぶん神や仏を恨んだことがあるが、この世には、仏様の使いとして生まれ、早く死んでいく人もいるのであるということを知り、何となく安心したことを覚えている。

 

如来(仏)は、どこにでもいらっしゃるそうである。

私たちは、如来がいらっしゃることを感じとることができない。

ましてや、如来がどこにでもいらっしゃるなどとは、思えない。

私たちが、如来に見守られているとは、とうてい思えない。

しかし、如来は、母が、我が子を思うような愛で陰ながら私たちを見守っていらっしゃるのではないかと思う。

明治、大正時代の浄土宗の僧であった弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はいつもましますけれど、衆生は知らない。弁栄はそのことを知らせるためにやってきた・・・」であった。

 

迷っても悟っても、どんなことがあっても、私たちは、本当は仏のいのちの中、やさしいまなざしに見つめられているのであろうと思う。

 

この仏(如来)の存在を、確かに実感することができれば、それは悟りの一つではないかとも思う。

すでに、仏の存在を感じている人は幸せである。

私は、まだまだ仏の存在がはるかかなたに人影のようにしか見えてはいない。

仏は確かにいらっしゃるのだろうと、頭で考えているだけである。

 

 

仏教やすぐれた仏教者の教えには、すばらしい教えが山とある。

この教えを生かさないといけないと思う。

 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。