2019.3.14  他人を気にしない、自分を気にしない生き方
 
お釈迦様はスッタニパータという経典の中で、しつこいくらい執着を捨てよとおっしゃっています。
完全に執着を捨てることができたものが、悟り、永遠の安心を得ることができるのです。
執着を捨てるということは、なかなかできそうでできないですよ。
しかしできる限り執着しない生き方をするということであれば誰でもできるのです。
 
赤ちゃんや、子供達はこの執着心が少ないですよね。
昨日のこともすっかり忘れて、いや、ついさっきのこともすっかり忘れて、今を生きている。
その瞬間に楽しいことがあれば、思い切り笑い、痛みや悲しみを感ずることがあれば、思い切り泣き叫び生きている。
幼くても、おもちゃに執着したり、おいしい食べ物にも執着したりと、徐々に執着して、それが得られないと不満で苦しくもあろうかとは思いますが、大人に比べれば、はるかに執着心がない。
だから世界中の子供は、どんな環境にいても笑顔が素敵なのでしょう。
 
紀野先生に、人間いかに生きるのがよいのかという質問をして、お話しをしていただいたときに、「人からよく思われようなんて、そんなのは駄目だよ。自分がいいと思えば、それでいいじゃないか。そりゃ誰だって、人からよく思われたいと思うのは、あたりまえだ。しかし、そんなことでは駄目なんだ」とおしゃいました。
 
私の身の回りを見渡しても、人目を気にしすぎて、がんじがらめになっている人が多い。
今の自分に満足できていない人が多すぎる。
それは他人と比較するから、不満が出ることが多いのです。
日々、こうして生きていることだけでも肯定できて満足できれば、これほどの安心と幸せはない。
 
良寛さんというお坊さんは一生、乞食で一間での生活です。
破れ笠に、ボロボロの僧衣を着ていたものだからドロボーと間違われて、生き埋めにされそうになっても、なるがままに身を任せた人です。
藩主から寺を寄進すると言われても断った人です。
子供達とは、時間を忘れて夢中になって遊んだ人です。
なぜ子供が好きかといえば、子供達にはマコトがあるからとこたえています。
書家の書とか、料理人の料理というのは好きでないといっています。
自分が好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。
同じ仏門の僧にも友達はいましたが、漢詩の中では痛烈な批判をしています。
しかし、その批判の心も、少しもひきづったようすはない。
良寛さんの漢詩の中には、ただ縁にまかせて生きるのみという言葉があります。
これは執着のない生き方です。
 
私も、できる限り、執着は捨てて、生きていきたい。
自分の命にも執着せず、生きるときは生きる。死ぬときは死ぬ、と思い定めて生きていきたい。
 
 




 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。