「絶対肯定の生き方」   2019.7


人間いかに生きるのが良いのか、ということについて我師(紀野一義先生)にお伺いしたことがあります。

この問題については、なかなか結論が出ないということでした。
人それぞれに、その生き方は違うということでしょう。
ただ、人からよく思われようという思いでは駄目だとおっしゃいました。
 人間だから人から良く思われたいと思うのは、あたりまえだ。だが、自分がいいと思ったら、人からどう思われようが、自分がいいと思う生き方をしなければ駄目だとおっしゃいました。
 我師に言われましたので、やはり、身にしみて大切な言葉として覚えています。
 この人から、良く思われたいという気持ちは、何でもないようで、ささいなことのように思われますが、人の行動や生き方を左右しているのかもしれません。
 もっとも、自分がやりたいことも、したいことも、本当は何をしたいのかも、はっきりしないのですから、生き方以前の問題もありそうですが・・・。
 良寛さんは、悟りというものは、その手順があったり、教えたり言葉にすることのできるものではないと言っています。
 やはり、自分なりに、道なき道を歩いて見つけ出すものらしいのです。
 そんな難しいことは、誰にでもできることではありません。
 我師の教えの基本は、誰にでもできる、「肯定」の世界なのかもしれません。
 例えば、片目を失明して嘆き悲しむ人。
 まだ、片目が見えると感謝する人。
 さらには、片目を失って、今まで見えなかったものが見えてきたと、新しい発見をして人生を深める人。
  (確かにこのような経験をした詩人や女優がいました)
 どんな不幸せに見える事も、見方、考え方を変えれば、幸せな気持ちになれます。
 そうはいかないと言ったらそれまでです。
 どうしたらいいんだと言われたら、やはり、想像力、気づき、賢さ・・・ですかね。
 ソフトバンクの孫正義さんの講演を聞いていたら、孫さんは買い物をする喜びがなくなったとのことでした。
 何しろ買おうと思ったらデパートのビルごと買えるのです。
 そう思うと、買い物の喜びがなくなったのだそうです。
 私のように100円ショップで、お気に入りの商品を見つけて、あれも買ってこれも買ってなどといった喜びはなくなったということなのですね。
 私たちは、いつもないものねだりで、自分にあるものを見落としているようです。
 今、見えていないが実はある良いものに、少しは気付かなければなりません。
 肯定、肯定、絶対肯定。
 ええなあ  ええなあ
と、肯定していく生き方。
完全にはできないけれど、できる限り肯定していく生き方。

我師には、この肯定する生き方の大切さも教わったように思います。

※この文章を書いたあと、紀野先生の「法華経を読む」という著書を読んでいたら「娑婆即寂光土」についてのページが最初に目に飛び込んできました。私利私欲のない人々の幸せを願う生き方をしていると、この世がそのままで浄土のように美しい世界に見えるようになるとのことです。

 


 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。