2020.1   「ないものねだりと絶対肯定」

私が小学校の3、4年生の頃だと思いますが、お寺の本棚にあった紫色の表紙の仏教童話全集を読みました。
いくつかの話しを、妙に覚えているのですが、その中の一話に「金剛石(ダイヤモンド)」の話しがあります。
ある若者が貴重で高価な金剛石を求めて、旅に出ます。
しかし、金剛石を見つけることもできずに、年老いて故郷に帰ったところ、なんとその金剛石は故郷の谷川の中にあったというのです。
 
この話しがふと私の脳裏によみがえることがあります。
私は、大切なものを見落としているのではないか。
大切なものをどこかに置き去りにしているのではないか。
 
たまに子供たちに接することがありますが、何でもない普通の子供の、またすばらしさに、どきりとさせられることがあります。
良寛さんが、「子供には、まことがあるから好きだ」とおっしゃったことを、しみじみと感じたりもします。
その子供たちも、いつしか、普通の大人になっていきます。
 
「流れ流れて東京を、そぞろ歩きは軟派でも、心には硬派の血が通う・・・」
二十歳の頃から、なぜかこの歌を口ずさんでいましたが、本当に、広島の山奥から東京に流れついてしまいました。
 
無意識のうちに、心が求めているものが、現実を作りだしているのかもしれません。
 
ゆるぎない真実というものを、求めてきたように思うのですが、それは、意外と、自分のすぐそばにあるのかもしれません。
 
それが見えない。
見えてしまえば、それで終わりなのか。
知らないからこそ、おもしろくもあるのかもしれない。
 
何しろ、悟ったりして、悩みの一つもなくなったりしたら、人生はどんなにつまらないだろう。
極楽浄土のように、美しく楽しく限りない喜びに満ちただけの世界なんて、想像しただけで、退屈でぞっとする。
 
やはり、人間世界で、悩み苦しみ、その中で、人の真心に触れることの方が、はるかに嬉しい。
 
あるお坊様が、不満の多い男におっしゃいました。
 
「おまえの女房は、おまえにちょうどいい」
「おまえの子供は、おまえにちょうどいい」
「おまえの会社は、おまえにちょうどいい」
 
笑っちゃいますよね、確かに多くの人は、ないものねだりで、日々は不満や愚痴が多くなりますが、何もかも、本当はちょうどいいのかもしれません。
我師の、教えの基本は、肯定、肯定、絶対肯定です。
 
そんなことはできない。
そうですね。
それも含めて肯定。
 
諸法実相。
すべてはあるがまま。
それを、いいとかわるいとか思うのは人の心です。
その心を変えれば、悪いことも良くなります。
 
それができるようになるには、やはり賢さや、想像力も必要かもしれません。
もしくは、バカになりきることです。
バカになりきることも難しいですね。
せめて、子供の頃の無邪気さを思い出して、心ひろびろとさわやかに生きたいものです。


 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。