2020.2   「黄金の70代」


我師、紀野一義先生は「黄金の70代」ということをおっしゃたようです。
何人かの70代の紀野先生の真如の会の仲間も、そういっていました。
私は、直接、その言葉を聞いていないのですが、何かの著書にも書かれていたようにも思います。
そういえば、確かに、先生の100冊以上の著書のうち70代での著書も多いようです。
 
お亡くなりになる前年の90才までは、毎月、鎌倉の大仏、池上本門寺、四谷の安禅寺、谷中の全生庵、本行寺と講話がありました。
それぞれが、30年、40年、50年も継続されてきたのですから、この世の移り変わりとは異なって、変わらぬ真理があってのことと思います。
 
先生が、50代の頃にお書きになったものを読むと、「仏様に、お願いしてあるから90才まで生きるだろう」と書かれています。
先生が85才の頃からは、10メートル歩いては、一休み、また一休みで、それぞれのお寺に講話にお出かけになることも大変になりました。
最初は、先生の左脇に手を差し入れて、一緒に歩いていたのですが、先生の脇下は汗でびっしょりでした。
その頃の講話では、戦争中の話しを何度も何度も繰り返しなさいました。
戦争中何度も何度も死んでいたかもしれないのに、不思議と先生は危機を乗り越えていきます。
どう考えても、目に見えない仏様が、紀野先生を守り、紀野先生も守られていることを、しかと感じられたということなのかも知れません。
街中の、ふとした、地蔵様にも先生は手を合わせられます。
それが、89才になられた頃から、地蔵様には手を合わせられることはなくなりました。
四谷の安禅寺の入り口には「たんきり地蔵」という大きく立派な地蔵様がいらっしゃいます。
この地蔵様にも手を合わせられることはなくなりました。
その頃は、一緒に食事をしていても、誤嚥で非常に苦しくせき込み息もできなくなりそうなくらい苦しまれることが何度もありました。
私は、なぜ、「たんきり地蔵」に手を合わせることをおやめになったのかがわかりませんでした。
こういうときこそ、手を合わせ、いつもの先生らしく「よろしく頼みますよ」とお願いされるのが、いいのではないかと思ったものでした。
でも、それは、90才までは生きそうだから、もうそろそろいいですよ、ということだったのかもしれない。
するべきことは、なしおえ、語るべきことも語り終えたということだったのかもしれません。
どれだけの人間が、先生の教えを理解できたのかは、定かではありません。
しかし、いずれは、先生の教えをはっきりと理解するものが現れるでしょう。
 
ところで「黄金の70代」と、先生はおっしゃり、先生は70代に十二分な活躍をなさいました。
 
私は、今年64才。
 
あっという間に、70代に突入します。
 
何とか「黄金の70代」を、立派に生き抜きたい。
 
そのためには、今の一日を、そうおろそかにはできない。
 
日々「黄金の70代」に向かって鍛錬しなければならない。
 
皆様もいかがでしょうか。
 
そんなに努力したり、才能や能力が必要だということではないと思います。
 
ちょっと、その気になるだけで、人生は輝きはじめるのではないでしょうか。
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。