2020.3月   泣きながら生まれ、笑いながら死ぬ
 
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが「私は泣きながら生まれ、笑いながら死んでいく」と言っています。
マハラジは、般若心経の説く「色即是空」、心も身体も地球も宇宙も実態がないという世界を説いているようです。
時間も空間もない世界があり、ただ「私はある」という感覚に至りなさいと言っているのではないかと思います。
禅宗でいう悟りの世界に近いのかと思うのですが、その世界は愛と慈悲に満ちた至福の世界だと言います。
 
悟りというものは言葉では表現しきれない世界のようですが、良寛さんの悟りは「まぶしいまでの光に満ちた世界」のようです。
その良寛さんは、悟ったからと言って、悟りすました顔をした奴は好きではないと言っています。
確かに、3歳年下の幼なじみでもあり、仏法の弟子でもあった三輪佐一が47才で結核で死んだときには、良寛さんは嘆き悲しんで病の床に臥せてしまいます。
我師、紀野一義先生も「悟ったから、親が死んでも泣かないなんていう奴は好きになれない」とおっしゃたことがあります。
本当に悟った人は、「暑ければ暑いといい、寒ければ寒いという。普通の人とちっとも変わらないよ」とおっしゃいました。
その悟った人とは柴山全慶老師や朝比奈宗源老師のことでもあり、紀野先生本人の生き様でもあったように思います。
 
悟ったら悲しみがなくなるのかといえば、そうではないようです。
ただ、悲しいまま、それはやがては癒えていき、悲しみが心を研ぎ澄ませてくれるということでしょうか。
 
お釈迦様は、「私にも欲がある。最高の幸せを求めている」とおっしゃいました。
 
お金を儲けたり、出世したり、王様のような権力者になったり、美しい娘たちに囲まれ、音楽や踊りに酔いしれるようなものよりはるかなる幸せ。
無私の愛と愛がふれあい共鳴するような世界。
そのためには、自分自身が無私無欲で人を愛せるようにならなければ、より深い幸せはつかめそうにない。
 
ところで、ニサルガッタ・マハラジは、「私はある」という感覚の世界は、愛に満ちているという。
死についても、身体や頭や心が消滅するだけで「私はある」という感覚は、永遠であり、時間も空間もない世界だという。
多くの西洋人がニサルガダッタ・マハラジに質問をして、マハラジは懇切丁寧に答えている。
西洋人には、どうやらマハラジの教えが、まるでわからないようである。
それが1冊の本「I AM THAT」(私はある)にまとめられている。
マハラジと西洋人の問答を読みながら、日本人なら、マハラジの言っていることがもっとわかるだろうにと思う。
ましてや禅宗のお坊様が、マハラジの教えを聞いたら、「そうだ、そうだ」と言ってくれるのではないかと思った。
 






 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。