「仏様のそばで、お昼寝はどうでしょうか。」

夏になると、ふと思い出す話があります。

 浄土真宗の熱心な信者(妙好人)として有名な人がいたのですが、その妙好人が真夏のある日、仏壇の前で胸をはだけて気持ちよさそうに昼寝をしていたのです。たまたまこれを見た、やはり信心深い人が、「妙好人と言われる人間が、そんな恰好で阿弥陀如来様の前で昼寝をするなど、けしからん」と注意をしたら、妙好人は「おまえは、継子(ママコ)か」と言ったとのことです。
 妙好人は、阿弥陀如来のことを実母のように思い安心して甘えていたのでしょうね。
 注意した人も妙好人の言葉に、はっとするものがあったのではないでしょうか。
 それでなければ、この話しは伝わりません。
 とかく、私たちは、世間体というものを気にしすぎるようです。他人の目を気にしたり、形式にとらわれたりで、本来の大切な心を見失っているのではないでしょうか。

 仏は、衆生無辺誓願度、すべての人々を救いたいという誓いのもとに悟りを開かれたのですから、優しさにあふれています。

 良寛さんにも、母の故郷からわざわざ取り寄せたお地蔵さまを、いつのまにやら枕変わりに使用していたというお話しがあります。
 一休さんも、蓮如上人が留守の間に訪問してきて、阿弥陀如来か親鸞聖人の坐像であったと思いますが、それを枕にして昼寝していたという話しがあります。(決して、阿弥陀如来や親鸞聖人をあなどったのではありません。一休さんは、蓮如上人と仲がよく臨済宗から浄土真宗に改宗しようとしたほどです)

 私たちは、世間体とか、社会的評価とか、常識とかを気にしすぎているのではないでしょうか。
 競争社会に染まって、他人との比較の中で、一喜一憂していると、なかなか安定した安心というものはありません。

 仏教は、優しさにあふれ、たとえ厳しさがあったとしても本来はおおらかなものであると思います。
 信心はあるようでない人もあるでしょうし、ないようである人もあるでしょう。 本当の信心の見極めは難しいとは思いますが、妙好人や良寛さんや一休さんのような、本当の信心ある人にめぐり会えた人は幸せです。

 仏は、すべての人を救いたいという誓願の上に悟りを開かれたのですから、私たちは、すでに救われているはずなのです。 私は、このことが20代の後半から、漠然と気になっています。しかし60歳になっても、このことは、はっきりとはしません。

 白隠禅師の坐禅和讃の冒頭は、「衆生本来、仏なり」です。
 般若心経の後半は、過去現在未来の諸仏が、この上ない悟りを開かれた。安心しなさい。この悟りは、一切の苦しみを取り除いてくれるです。
 仏教各宗派で称える四弘誓願の第一番目は「衆生無辺誓願度」です。
 
 どうやら、私たちは救われているようだし、救われる方法もあるようなのですが、そう簡単にはわからない。
 わからないなりに、苦しいときや、悲しいときには、仏様の優しさや教えを思うと、心は少し軽くなりますよ。

 何はさておき、仏様は、限りなく優しい存在であるのだから、仏様に、少し甘えてもいいのではないかと思います。