2020.7  「南無地獄大菩薩」
 
 南無地獄大菩薩(ナムジゴクダイボサツ)の言葉は、白隠禅師の言葉で、白隠禅師直筆の書も多く存在するようです。
 何が、地獄がそんなにありがたいものであろうか。嫌な言葉だと思います。
 白隠禅師は子供の頃、お寺で地獄の話しを聞き、自分は虫や魚をたくさん殺したから、絶対地獄に落ちるだろうと思い、怖くて怖くてしようがなかったようです。
 そして地獄に落ちないためには、お坊さんになるしかないと思って、お坊さんになったようです。
 そして深い悟りの境地に達して、生きるも死ぬも地獄も怖くなくなったということです。
 地獄の恐怖を感じなかったら、お坊さんにもならず、深い悟りの境地も得ることができなかったのですから、地獄は何ともありがたい存在だったわけです。
 それも地獄が仏様のようにありがたいということらしいので、何ともいいがたいですね。
 白隠禅師は、ノイローゼというか鬱病というか、禅病というか、精神を病んだことがおありです。
 それを何とか克服して、大悟は三度、小悟は数えきれないほどだそうです。
 悟りも一度で終わるものではないと知り、少し唖然とします。
 そして、地獄はなんとありがたいものか、地獄があってこそ、地獄が悟りへの道だというばかりの境地のようです。
 
 日々、平々凡々と過ごしていると、知らぬ間に欲にからまれ、あれがほしい、これがほしい、もっとほしいと、欲の追及で日々が過ぎ去り、あっという間に、死を迎えます。
 死ぬ直前になって、死んだらどうなるのだと思っても、怖くて怖くてしようがなくなっても、ちょっと手遅れですね。
 早い時期に、死にたいとか死にそうなほどの悲しみや苦しみに出会うことは、人を変えるチャンスに違いありません。
 いかに生きるのがよいのか、死んだらどうなるのか、死んでもくいのない生き方をしたいものです。
 
 子供の時から地獄を恐れ、死を恐れ、いかに生きていくのが良いのかを考えさせられることは良いことかもしれません。
 甘い優しさだけでは、人間も腐ってしまう可能性があります。
 やはり人は、時には、この世の地獄を見て、経験して、目をさましたり、人生を深めていきます。
 
 ああ、南無大地獄。
 地獄のような経験はしたくもないのですが、長い人生には、必ず地獄のような苦しみがおとずれることがあります。
 その経験が人を成長させてくれることを祈ります。
 
 私も、最近、ある人との別れがあり、どうしようもない悲しみにつつまれ、何とか立ち直りつつある最中です。
 お互い、がんばりましょうというところでしょうか。



白隠禅師の書