2020.12  「年末を迎えて」

今年をふりかえっても、すべての過去をふりかえっても、ほんの少し精神的に成長したかもしれない程度である。
真実、真理をもとめてきた自覚は人一倍あったようには思うが、なんとも情けない状態である。
最近「仏陀のことば」(スッタ・ニパータ)中村元訳を読みかえしているのだが、悟りというか、清らかな心というか、安心の心というか、そのようなものを得るためには、学問や思想や哲学や宗教によってはならない。戒律も協議にもこだわってはならないようだ。
あるがままを見るような、まったくこだわりや執着のないような、状態が必要のようだ。
仏陀の教えには、非常に多くの戒律があったように思うが、仏陀は何ものにもとらわれない心を非常に大切にされたようである。
読めば読むほど、そうなのかと思うが、なんと表現していいのかわからない。
ただ、般若心経に書かれているように、過去現在未来の如来(仏)が、衆生(すべての人々)を救うために、このうえない悟りを開かれたということは、何となくわかるような気がするのである。
だから、衆生は悟らなくても、安心しなさい・・・、といっても、安心などできるわけがなく、多くの人々は、不安と悲しみ恐怖におそわれてしまうのだが・・・。
それを何とかしたいというのが多くの仏の願いだったのではないか。
それなのに、どうも、この世の中、救われているようには見えないのだが・・・。
諸法実相、本来、いいも悪いもないので、ただそれを思うのは人それぞれ個人の思いだから、苦しみも悲しみも、不安も、結局は個人の勝手な思い込みにすいぎない。

いつまでも、こんなところで、どうどうめぐりをしていても、しようがない。

老いてくれば、そろそろお迎えも近いのだから、すっきり生きればいいようなものだが、すっきりした年寄りにあまりお目にかかれない。
先日たまたま仕事の関係で電話した年配の男性は、いきなり「野田さーん。野田さんなの」と、初対面なのに旧知の知り合いのような感じだったけれど、本当に会えばどんな人なのだろう。
私が、毎月書く、このブログを読んで、なるほどね、そんなこともあるよなと思ってくださっているのだと思う。

私もいまだに人生いかに生きていくのかがわからない。

でも私は、あまり歳を感じたことがない、いまだに子供のとき、少年のときとあまり変化していない。

最近、紀野先生の「生きるのが下手な人へ」という本が復刊されたが、その冒頭の一章のテーマは「人間いかに生きようが、何をなそうがなすまいが、たいした違いはない」ということであった。
山本周五郎の「虚空遍歴」という作品が紹介されているのだが、周五郎の座右の銘である「人間の価値は、何をなしたかではなく。何をなそうとしたかである」に対する紀野先生の山本周五郎へのメッセージでもある。山本周五郎は、紀野先生のメッセージを知り、是非紀野先生に会いたいという電話をなさったが、会う直前で病に倒れられてしまった。
お会いになっていれば、どうなっていたのだろうかと、残念でならない。

紀野先生の会には、これといった戒律とか規律はなかった。
何事にもとらわれていないような、真実をもとめ、仏をうやまい、おおぜいの人々の幸せを思う心があったのだと思う。


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。