「苦しみの対処方法 その1」

 私は、20歳のときに良寛さんの、ある漢詩の一つを読んで、良寛さんが大好きになりました。
 60歳の今日まで、東郷豊治氏が編纂された良寛さんの漢詩の詩集を何度も何度も読んできました。
 すると良寛さんは、悟りを確かに開かれ、自他ともにそのことを認めていたのだということがわかります。
 良寛さんは、その悟りは言葉にして誰かに伝えようとすると壊れてしまいそうだとおっしゃいます。
 当然、良寛さんの悟りが、どんなものだったのかということは、言葉では説明されていません。
 
 良寛さんは新潟県の出雲崎でお生まれになり、岡山県玉島にある円通寺で修行され、国仙和尚から印可されています。
 私の師である紀野一義先生も、良寛さんのことが大好きで、良寛さんに関する数冊の著書があります。
 私は、良寛さんが歩き紀野先生が歩かれた土地も少しだけ歩きました。
 
 子供達とかくれんぼをしたり手毬をつく良寛さんからは、悩みや苦しみは想像ができないと思います。
 子供達と遊んでいる良寛さんを、村人達は笑って通りすぎたり、どうして遊んでいるのですかと責めたりします。
 良寛さんは、軽く会釈して頭をさげて、やりすごしています。
 
 良寛さんにも色々なことがありました。
 あるとき知らない村を托鉢して歩いているときに、盗人と間違われたあげくに生き埋めにされそうになりました。
 たまたま良寛さんのことを知っていた庄屋さんが通りかかったので、運よく誤解がとけて助かりました。
 どうやら良寛さんは、強く弁明もせずにお経を唱えて生き埋めになるのを待っていたようです。
 
 良寛さんは漢詩の中で、「災難にあうときには災難にあうのがよろしい。これが災難を避ける方法だ」といっています。
 死ぬときは、死ぬのがよろしいということでしょうか。
 
 ところが、これほどの良寛さんでも友人の有願が死に、弟子の佐一が死んでしまうと、悲しみのあまり山中をさまよい歩きます。
 そして病気になって寝込んでしまいました。
 
 死ぬ前には大変な下痢で、それが耐え難い苦しみだったようです。
 漢詩の中に、その下痢の大変さが書かれています。
 最近、良寛さんの和歌を読んでいて、ドキリとしたのですが、この下痢の最中に「急に食事をとるのをやめて死んでしまおうかというわけでもないが・・・」などという意味の和歌があるのです。
 
 良寛さんでさえ、このようであったのだと思うと、人間ならば悩み苦しみもあってあたりまえで、愚かな自分も他人も愚かなまま、受け入れることができるような気持ちになります。
 
 お釈迦様も、晩年に弟子の阿難に「自分の身体は、今にも朽ち果てそうで、皮ヒモはちぎれ車輪はくだけそうに軋んでいる牛車のようだ。」とおっしゃいました。
 なぜかお釈迦様も最後は下痢でした。
 お釈迦様だから病気にならないとか死なないのではありません。
 当然お釈迦様は、自分の身体に対する執着もなく様々な煩悩を断ち切ったお方ですから、病気や老いの苦しみも、なんなく受け入れられたと思います。
 
 人は様々な災難や苦しみ悲しみを必ず経験することになります。
 そんなときにも心の支えになるものが、お釈迦様や仏教者の教えと生き様にはあります。
 
 私は、良寛さんのおっしゃる「災難にあうときには、災難にあうのがよろしい。それが災難を避ける方法だ」の言葉を転じて「死ぬときは死ぬのがよろしい」と覚悟するようにしています。
 このくらいの覚悟があれば、小さなことはへでもないですよね。
 しかし、実際の私は、めずらしく頭痛でもすれば、脳梗塞ではないかと不安がよぎり、痛みに耐えかねて右往左往して、夢中で般若心経など唱えています。
 人間なんて、そんなものだと思います。 
 理想と現実には、かなりの違いがあっても、自分というものに執着しない、欲に執着しない、人からよく思われたいなどとは思わない、愛する人にも執着しない、すべてを受け入れていくことは大切な生き方だと思っています。
 どこかで、腹をくくるというか、ふんぎりをつけるというか、思い切ることができないことも多かろうと思いますが、執着を断ち切りることも大切かと思います。
 (煩悩無尽誓願断)全宗派で称える四弘誓願の二番目は、煩悩無尽誓願断です。
 様々な煩悩があります。煩悩はあってあたりまえのようですし、それは断ち切っていかなければならないものだということも、ずいぶん昔から言われ続けてきたことなのですね。
 
 
今朝、ふと目にとまった記事がありましたので、紹介します。
 

老いも病も受け入れよう』(新潮社)が、5月31日に出版される。94歳を迎えた寂聴さんが若さと長寿について初めて綴ったその思いは、本のタイトルにもこめられており、

「人間は老いるし、病気にもなる。なりたくなかったら早く死ねばいいの。結局、反対したってなる。いかに私が病気の時に嫌な思いをしたか、苦しかったか、友達から優しくしてもらって嬉しかったか、その辺を全部書きました」

 すべてを受け入れたという寂聴さんは、闘病中も、“仕方ないから戦わなかった”という。法話では質疑応答の場が設けられ、参加者からの人生相談が寄せられたが、そんな人々に寂聴さんはこう説くのだ。

「お釈迦様は、この世は苦だとおっしゃってらっしゃいますからね。苦しみがないっていうのは、ちょっとおかしい(笑)。でも、それが人生ですからね。私一人がこんな目にと思わないで、これが人生だと思って生きてください」

(デイリー新潮編集部記事を参照)