2021.3   執着しないことの大切さ

この頃、執着しないことの大切さを思っている。
ブッダのことば(スッタニパータ)の後半部分で、ブッダがしきりに執着することがなくなることの大切さを繰り返し繰りかえし語っていらっしゃる。
執着するな、執着するなと、おっしゃっているのである。

そういえば、達磨大師のあとをついだ慧可(えか)が、「最近、すっかり執着するということがなくなりました」と達磨大師に言ったとき
達磨大師は「すっかり何もかも忘れてしまったのではないか」とお聞きなりました。
慧可は「ところが、何もかも、はっきりはっきりしているのです」とこたえている。
達磨大師は「それは祖師方が通ってこられた境地であるから、大切にしなさい」とおっしゃっています。
慧可は達磨大師の弟子になるために、片腕を切り落として達磨大師に自分の意志の強さを見せたような、執着心の非常に強い人間です。
その人間が、物事に執着しなくなった。当然悟ろうなどという気持ちも亡くなったに違いない。
ところが、物事というか世界がはっきりはっきりと見えるようになったというのである。

無難禅師は、「生きながら死人となりてなりはてて、思いのままにするわざぞよき」と歌を作っていらっしゃる。
これは、わが身に執着するな、すべてに執着するなということである。

良寛さんの生き方も、名声や名誉、お金や財産などとは無縁の生き方で「死ぬときは、死ぬのがよい」とでも言わんばかりの暮らしぶりです。

我が師、紀野一義先生は「人からよく思われようなんて、そんなのは駄目だ」とおっしゃいました。
たったそれだけの言葉を肝に銘じても、普通に生きていれば嫌なことがたてつづきに起きたりします。
その嫌なことが、ケロッと忘れられる。いつの間にか、忘れている。
つまり執着しない生き方です。
これは、さわやかに生きる秘訣です。

私も、24才のとき「何者かになるためには、敢然とそれを守り押し通さなければならない」という格言を数年間壁に貼り付けて、肝に銘じたものでした。
心の底に、捨てきれないものがいくつかあって、それを思い出しては、何とかしたいと、あえいでみるのでした。

最近ようやく、そんな大切な思いも執着から解き放されたように思います。
執着するのもよろしいかとは思いますが、本来は、執着はよろしくないものなのです。
執着しないことの大切さを、一度考えてほしい。







今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。