2022.07  あとを継がせる気はない
 
 紀野一義先生は、1922年(大正11年)8月9日のお生まれである。
 来月は、生誕100年ということになる。
 私のところにも、何かお祝いや集まりはあるのかと、ぽつりぽつりと問い合わせが入っている。
 8月9日は火曜日で、普段なら仕事で休めないのだが、代休で休めることになった。
 一人墓参りする予定だが、久しぶりに会いたい仲間もいる。
 ばったり会うというのも、良いかもしれないが、電話でもしてみようかとも思う。
 
 紀野先生を主幹とする真如会は、多いときは1000名以上だったのであろうと思うが、先生の晩年は300名程度だったと思う。
 先生は、自分の息がかかる程度、自分が面倒をみれる人数だけいれば良いというお考えだった。
 会を必要以上に大きくするお気持ちはなかった。
 自分が死ねば、真如会も、それで終わり。
 誰かに継がせる気はないとおっしゃっていた。
 
 この真如会の会員の中には、各宗派の管長クラスの方が何人かいらっしゃる。
 その方々の心の中に、在家の一般の会員の心の中に、一粒の種が芽生えるのでないだろうか。
 
 先生は、仏教を誰にでもわかるように、お話になった。
 また道元、親鸞、日蓮、良寛、明恵上人など、様々な仏教者の生きざまを教えてくださった。
 それと同じように現代に生きる、ごく普通の人間の生き方、生きざまを紹介してくださった。
 
 その教えの究極にあるものは何かと言えば、誰もうまく表現できないのではないかと思う。
 
 それでもあえていうならば、人の一生なんて何をなした、なさなかったといっても、たいした違いはないですよ。
 自分を否定しまっていることが多いでしょうが、人生は、肯定して生きなさい。
 そして、心ひろびろとさわやかに生きなさい。
 そして、真実を求めていきなさい。
 そして、おおぜいの人々の幸せを願う生き方をしなさい。
 そういうことを大切にして生き、心と心のふれあいを大切にしなさい。
 心にずしんと響くようなことを見たり、聞いたり、体験しなさい。
 思いきりよく生きなければ駄目ですよ。
 
 私たちは、仏のいのちから生まれ、やがては仏のいのちの中に帰っていく。
 
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   
一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。