2022.10  不安と安心(正師)
 
 人間生きていると、心配事や不安に心を痛めるものだ。
 歳をとれば、人生がわかって、不安などなくなればいいようなものだが、そうはいかない。
 歳とともに、よきせぬことで、やはり不安になることもあるようだ。
 私の場合には、いつ死んでもいいと思っているし、病気になったら、それはそれでしかたないと思っている。
 どれだけ貧乏になろうが、貧乏生活をそれなりに楽しめるのではないかとも思っている。
 ということで、自分の人生に不安はほとんどないのだが、子供が苦しんいる姿は、さすがに身にこたえる。
 しかし、子供も、いずれ何とかなるだろうとは思っているし、以前に比べれば、何とかやっているので、実際のところ、やはり、あまり気にしていない。
 老後も、一人で過ごすより、愛すべき人と静かに暮らせたらと思うが、相手側に、私ほどの覚悟がある女性は見当たらない。
 
 私は、はた目には、しっかりものの優しい男性だが、私の内面は、なかなか一筋縄ではいかない。
 しかし、誰しも、心のどこかで、何かが違っていると思っているのではないだろうか。
 多くの人が、自分を否定し、他人を否定し、かといって、どのように生きればよいかという、しっかりした人生観、倫理観、哲学観、宗教観をつかめずにいるのではないだろうか。
 
 本来、宗教は、人間の生き方を教え、心の不安を取り除いて安心を与える役割をはたしてきたのだと思う。
 最近の宗教は、そこのところが、きちんとできていない。
 それどころか、人の心の不安につけこんで、利用していることが多い。
 
 正師(せいし、正しい師)とは、その人に生きる喜びを与えてくれるという。
 正師が、増えなければならない。
 師のない仏法はないそうである。
 それだけ師は大切なのである。
 良き師が増えてくれることを願う。



今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。