2023.2 すべての衆生は救われている

 

 今から40年ほど前、東京のホテルに宿泊したときに、仏教聖典を初めて読んだ。

 ホテルの一室に聖書と仏教聖典が並んで置かれていた。

 非常に興味深く読み、ホテルのショップで買い求め、友達にも紹介したものだ。

 仏がすべての衆生を救うことができないのなら、私は悟らないという誓願をたて、悟りを得て仏の誓願が成就したと書かれていた。

 この一文が妙に気になったものだ。

 それでは、すでにすべての衆生は救われているということではないのか。

 この疑問が、時々、脳裏をかすめる。

 

 浄土三部経を読んだとき、大無量寿経には阿弥陀如来の48の誓願というものが書かれており、第18番目の誓願が「阿弥陀如来の名前を呼ぶ者はすべて、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれさせることができないなら、私(阿弥陀如来)は悟りを開かないという誓願をしたうえで、誓願が成就したことになっている。

 ようは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名前を呼べば、極楽浄土に生まれるのだ。

 そんな、ことがあるのであろうか。

 もっとも、極楽浄土は美しく楽しいばかりで、何となく退屈そうで、極楽浄土に生まれなくてもいいと思っていたら、そういう人間は阿弥陀如来の救いから除くと書かれているから、おそれいったものだ。

 さすがに、私も、気弱になったときには、極楽浄土もいいかもしれないと思う。

 苦しみ悲しみがあってこそ、本当の幸せをかみしめることができるのではないかと思うが、苦しみ悲しみが続くと、極楽浄土のような安心の世界でしばし休憩したいと思う。

 

 般若心経を読むと、過去現在未来の諸仏がこの上ない悟りを開かれたのだから、安心しなさいと書かれている。

 立派な仏様達が、衆生を救うために、すでに悟りを開いていらっしゃるのだから、みんな救われているということが真実のようである。

 それが何とも、わからないから悩み苦しみ悲しむのであろう。

 いや、この悩み苦しみ悲しみが大切ということかもしれないな。

 

 最近紀野先生の「人生は捨てたもんじゃない」という本を読んでいたら、法華経の方便品には「すべての衆生が仏と等しく仏にならないなら悟りを開かないという誓願をたてて仏は悟りを得た」という内容のことが書かれているということがわかった。

 法華経はお釈迦様が説かれたお経だから、お釈迦様が、そのような誓願のもとに悟りを開かれたということであろうかと思う。

 ましてや、法華経には「常不軽菩薩品」というのがあって、常不軽菩薩はたえず「あなたは仏になられる方です。決して軽んじません」と、誰に向かっても礼拝したという。

 

 知れば知るほど、私たち皆が、すでに救われており、仏にもなり、極楽浄土にでも生まれることができる人間のようである。

 

 しかし、このことが、ピンとこない。困ったものである。そして、わからないまでも、そうらしいと思えるから、少しは安心かな・・・というところであろうか。

 

 皆様は、こんなことを少しは考えたことがおありであろうか・・・。

 

 やはり、このあたりは、人それぞれに思い考えたりしていくしかないのかもしれないが、少し、参考になったと思っていただければ幸いです。

 

 

ずいぶん後になって気づいたのだが、仏教聖典の編集のための戦後の第1回目の結集のリーダーの名前として巻末に紀野一義先生の名前が掲載されていた。

 

 紀野先生とは知らない間に、やはり深い因縁があったのですね。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。