2023.03  肯定する力

 

 我が師の教えは何だったのだろうかと考える。

 

 私なりに解釈しようと思う。

 

 先月も書いたと思うが、人間は本来全員救われており、いずれは仏にでもなろうかという存在である。

 そのことは、仏教の経典にも書かれているのだから、誰も否定はできないだろう。

 どんなえらそうなことを言っても成しても、長い宇宙の時間の流れの中では、チリのようなものだ。

 だから、何があろうが、どんな人間だろうが、放って置けばいいようなものだ。

 しかし、困るのは、現実問題として、人々が不安に怯え、欲望にからめられ、悲しみ苦しむ姿だ。

 もっとも、他人事ではなく、私も、無意識のうちに、悩み不安を感じることが多々ある。

 なぜ、悩み不安を感じたりするのか。

 それは、いつの間にか、現状を否定しているのですね。

 

 いくらお金があっても、才能に恵まれていても、健康でも、自分を、現実を、肯定できなければ苦しむ。

 貧乏でも、不器用でも、病気でも、自分を、現実を、肯定できれば幸せだ。

 

 右腕を、事故で切断して失くしても、まだ左腕があってよかったと思う。

 右腕を、失くして、今まで見えなかったものが見えるようになることもあろう。

 今日も一日生きている。ありがとう、ええなあ。と、思う。

 

 ややもすると、人は絶望します。不安にかられます。

 そんな否定的な思いの時に、逆に、ええなあ、と思う。

 少しくよくよしても、もう駄目だと思うくらいくよくよしても、最後は、肯定して、ええなあ、と思う。

 この生き方なら、どんな状況下でも、安心と幸福感は得られる。

 

 具体的に肯定なんて、そう簡単にはできないかもしれないが、肯定することが大切だ。

 やはり、想像力、思考力、たまたまのめぐりあわせ・・・。

 

 不運の中、不幸の中、明るく元気よく生きている人には、この肯定する力、思い、想像力があるのだと思う。

 そして、我が師は、この肯定する生き方を大切にされたのだと思う。

 

 「ええなあ、ええなあ、ほんまにええなあ」私も、しばらく、意識的にこんな生き方を実践していこう。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。