「仏様はいらっしゃいますか。」

仏様はいらっしゃいます。
私は師と仰ぐ紀野一義先生のおそばにいて、仏様はいらっしゃるのだなと思うようになったようです。
実のところ、自分がどのように信じているのかは定かではありません。
紀野先生のお話しや著書にも出てくる、大正、昭和に活躍された浄土宗の僧である弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はまします・・・衆生はそのことを知らない・・・弁栄はそのことを知らせるためにやってきた・・・」だとお聞きしています。
文化勲章も受賞した世界的な数学者であった岡潔先生は、弁栄聖者を尊敬され、定期入れには弁栄聖者の信仰する阿弥陀如来の写真が入っていたそうです。
その写真を時々出しては、眺めていらしたとのこと。そして、「私が悪いことをするのも、良いことをするのも阿弥陀如来がしていらっしゃるのだ」と、そのようなことをおっしゃていたらしい。
紀野先生は、工兵の下士官として出征し、13隻の船団が12隻撃沈され、魚雷がすぐそばをかすめていくのも目撃されました。
撃沈された船の乗組員を救助しようにも救助できない。海に漂う兵士達は、救助しようとすると、先に行けと手を振る。停船したら、敵戦艦にたちまちに撃沈されることを知っているからです。
1隻残ったサマラン丸という船は台湾に上陸したものの、激しい空爆に襲われます。
不発弾の数も相当なもので、軍の不発弾処理班は誤爆で壊滅しました。
台湾の農民は不発弾を恐れて仕事ができません。爆弾に触るべからずとの軍命令が出ていましたが、農民のために軍命令を無視して紀野先生は、一人で不発弾の処理をしていきました。
その数1752発。どう考えても、誤爆しなかったのが不思議です。
実際に3度、信管をはずした瞬間、撃針が先生の指につきささったことがあったようです。
アメリカ軍の爆弾ですから、その構造がわからないものがあります。
そんなときには、爆弾の側で坐禅して思案したこともあったようです。
もともと紀野先生は、顕本法華宗の寺院の出身、中宮寺の如意輪観音様にそっくりのお母様は浄土真宗のご出身、仏様やお母様に守られていたことは間違いないようです。
この頃から先生は、仏様の存在を確かに感じられたのではないでしょうか。
東京大学印度哲学科の特別研究生にも選ばれ、将来は仏教学者としての道は開けていたのに、仏教伝道の道を選ばれました。
おおぜいの人々の幸せのために仏教をわかりやすく伝えていきたいというのが先生のお気持ちだと思います。
私が30歳、先生は65歳。
講談社の新書版で「般若心経を読む」という紀野先生の著書を初めて見たとき、読んだというよりも、本のカバーの先生のお顔の写真を拝見したときの印象が強烈でした。
ハンサムではありましたが、頑固一徹、嘘は決してつかないだろうというお顔を拝見して、非常に印象深く思ったものです。
当時、私はS出版の地方の営業マンでしたが、S出版の仏教コミックの監修が紀野先生でした。
だんだんと、紀野先生に近づき、先生の晩年は月の十日前後は、足が不自由になられた先生のお供をするようになりました。
先生のお側にいたおかげで、仏様はいらっしゃるということが自然に信じることができるようになったようです。
 
どれだけえらそうなことをいっても、迷ってばかり、不安と苦しみもつきまといます。
しかし、人生、つらいことも、迷いも、不安もあっていいのだということもわかってきたように思います。
 
先生がお亡くなりなる2年ほど前のことだと思いますが、先生の著書を持参して先生のサインをいただたくことがありました。
「・・・・・。迷っても、悟っても、仏の命の中。死んだら、また、会おうな」と書かれてありました。
迷ってばかりの人生だけど、それはそれで、いいのではないかと思います。
 
どうやら、死んだら、それでおしまいなのは、この世がおしまいなだけで、あの世もありそうですが、あの世で先生に会って、恥ずかしくない生き方をしたいものです。
 

 今は亡き、わが師の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。