2023.9  宮澤賢治と暁烏敏のこと

 

 十数年前、東北を車で旅したことがあった。

 宮澤賢治の記念館に立ち寄った時、賢治が幼少のころ、仏教夏季講習での参加者の記念写真があり、賢治の父母、妹のトシが写っていたが、その時の講師として暁烏敏が写っていたのである。

 賢治のことは多くの方が知っており、賢治の父は熱心な浄土真宗の信者であったこと、最後は賢治によって日蓮宗に改宗したこともご存じだろうと思う。

 暁烏敏については、知らない人が多いと思うが、大正、昭和時代の浄土真宗大谷派の傑僧である。

 私も、このブログで紹介したことがあるのではないかと思う。

 私は、賢治の記念館の写真を見て、賢治と暁烏敏には接点があったことまでは知っていたのだが、先日、何気なくインターネットでその写真が目にとまって、その写真の掲載記事を読んで驚いてしまった。

 賢治の父と暁烏敏は、非常に親しく盛岡で暁烏敏の講演があるときは、賢治の家に何度も宿泊したという。

 暁烏敏の書き物の中に、宮沢家に宿泊して子供達と天真爛漫に遊んだということが書かれているらしい。

 これは、賢治を含む宮沢家の子供達で、特に賢治のことであったのかもしれない。

 賢治の仏教に関する目覚めは、暁烏敏が大きく関わっていることになる。

 当時、仏教夏季講習での暁烏敏は、歎異抄について講演したようであるが、賢治が友達に書き送った手紙にも、暁烏敏のことや、その教えの一説が出てくるようである。

 

 もとは知らぬうちに浄土真宗の信者として仏教に触れた賢治が、法華経というお経に触れて、日蓮宗系の国柱会の信者となり、家族も改宗させる。

 最愛の妹トシが亡くなるときに、トシは「死んだら、どこにいくのか教えてほしい」と思ったに違いないのに、極楽浄土に行くのだから心配ないと、教えてやることができなかったことを賢治はどう思ったのだろう。

 賢治は作品の中では、死んでも大丈夫だということを書いたものがあるが、本気でそう思ってはいなかったのだと思う。

 だから、妹のトシが死んで、苦しみ悩み、北海道の最北端まで旅をする。

 

 人間にとって死は、そう簡単にはわからない重大な問題である。

 

 私も、いまだに、死んでも大丈夫とは言ってやることはできない。

 でも、嘘でも「死んでも大丈夫だと」いいそうだな。

 ただ、死ぬときは、死ぬのがよい。生きる時には、生きるのが良い。自分が生きることには執着はしないぞ、と思う。

 生きながら、死人となり、なりはてて、思うがままになす、わざぞよき。

 捨てて、捨てて、捨て果てる生き方。

 せめて死んだら、阿弥陀如来や仏様のもとに、できれば、ご挨拶できたらいいな。

 死んでいった人々に、また会うこともあるのであろうか。

 死んだ実母には、恥ずかしくない生き方をしなければいけないな。

 できれば、生きているうちに素敵な人に会いたいな、と思う。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。