2024.1  テキストに頼らない

 

 良寛さんが50歳を過ぎたころ、6歳年上の江戸では有名な儒学者であった亀田鵬斎(ほうさい)が越後に住んだことがある。

 良寛がある日、この亀田鵬斎の話しを聞きにいったところ、孔子の教えの一説があり、「孔子が天子から授かった名馬を飼育していた馬小屋が焼けた。その時、孔子は、馬はどうでもよい、人は大丈夫かと言ったという」

 この一説に対して良寛は、亀田鵬斎に「そこのところは、まずは、人は大丈夫か、馬は、どうであったかと訳すべきだ」と言った。

 亀田鵬斎は「昔からここのところは、解説書ではこのように訳している」とこたえた。

 良寛は「解説書に頼っているからいけないのだ。人命が一番大切だが、馬の命はどうでもよいというと、孔子の人格が下がったことになる」

 これを聞いて亀田鵬斎も、なるほどと思ったに違いない、その後、亀田鵬斎と良寛は、親しくつきあい、いくつかのエピソードも残っている。

 やがて亀田鵬斎は、江戸にもどったが、「鵬斎は越後帰りで字がくねり」という川柳が江戸では流行ったらしい。

 鵬斎は、良寛の子供のような素朴な文字にひどく感化されたようである。

 

 私たちは、教科書や解説書を読むと、それが正しいと思いがちだが、そこで大きな思い違いをしてしまうかもしれない。

 

 学問や知識や教養が、物事の本質を捉えているわけではない。

 

 昔から「畳の上の水練」「百聞は一見にしかず」という。

 

 頭の中で、こねまわしてわかったような気にならないようにしたい。

 

 やはり、心で、魂で感じるものを大切にしたい。

 

 なぜ、こんなことを書くかといえば、わたしの出生について、私自身が何も知らず、社会的な公的文書も間違っているからである。

 

 私の戸籍謄本は、今の両親から私が生まれたことになっているが、実は、私の母は別に存在していたのだ。

 

 子供の頃から、ひょっとして、私の父親は、別にいるのではないかという思いはあった。

 

 どこか、実際に深く愛されていない、実の親の愛を知らないような孤独感があった。

 

 高校から親元を離れ、地元を離れたので、私が、母親が違うということに気づいたのは30歳を過ぎてからのことである。

 

 地元に残っていれば、色々な噂が聞こえ、もっと早く気づいたにちがいなかったが、実家に帰ることがほとんどなかった。

 

 実の母は、ある意味身近な人で、私も、子供の頃から笑顔の素敵な聡明な人だと思っていたから、立派な人が我が母であったことは、幸せである。

 

 私の出生は、その母を、深く悩ませたことは間違いないのだが、その分、私も、しっかりと生きて、あなたを生んでよかったと、思ってほしいと、今は亡き母に思うのである。

 

 (真実、真相は、なかなかつかめないものです。テキストや常識、知識などに頼っていたら大切のものを見失いますよ)

 

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。