2024.2   良寛さんの芸術観

 

 良寛さんは、子供達と手毬をついたり、かくれんぼをしたりと、子供のように無邪気な人柄のようだが、良寛さんの内面はなかなか手厳しいものがある。

 良寛さんの漢詩を読んでいると、「世の中で名僧、高僧といわれる僧に会って、問答をしてみても、まだまだである」と手厳しい。

 良寛さんの悟りがどんなものであったのか知りたいが、「悟りはあるが、それは口にすれば、たちまちに壊れてしまいそうなものだ」という。

 おそらく詩のような形式でしか、それとなく表現するしかないようなものなのだろうと思う。

 その漢詩や和歌や俳句から、それとなく感じとっていくしかないのかもしれない。

 和歌についても、良寛さんは「何々流とか、何々調といった和歌を巧みに作っても、そこに、その人が表現されていないような和歌では、駄目だ」という。

 人まね、技巧的に巧みなものは駄目だという。だから良寛さんは、書家の書、調理人の料理といった、技術的に巧みなものは好きではなかった。

 

 良寛さんが子供と遊ぶのは、「子供には誠というものがあるから」とも言っている。

 

 そんな良寛の芸術観を感じながら、私が50年以上も前の小中学生の頃にテレビで見た「佐伯祐三画伯の人生ドラマ」の中で、パリに留学した佐伯祐三が著名な画家を訪ねて自分の作品を見せた時に「人まねにすぎない。こんなのは駄目だ」とけんもほろろに突き返された場面がよみがえる。

 最近AI(人口知能)が話題になることが多い。その知識量は莫大で表現方法まで、まねることができるのであるから、和歌でも何々調、良寛調と言ったものも現れるだろう。

 アドビのAI機能でイラストを制作したことがあるが、「竹やぶで空中を飛ぶ、かわいらしいかぐや姫」と入力したら、すぐに何種類かのイラストが表示された。

 ちょっとしたイラストレーターやデザイナーは、もう太刀打ちできなくなると思う。

 

 仏教の世界も、ユーチューブを利用してAIが和尚になりきって教えを説きはじめた。下手なお坊さまの説法より説得力がある。しかし、真実や悟りといったものとは違うと思う。

 

 今までも、器用で賢い人間は、人まねをして、それとなくその人になりきってきたのだろうから、AIが悪いともいえないだろうが、何が本物なのか、真実なのか、益々、判断しづらいことになった。

 

 良寛さんがいう「子供には誠というものがある」、はたして「AIには誠というものがあるのであろうか」









今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。

一、真実をもとめてひとすじに生きん。

一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。