2024.6  師のない仏法はない(仏法は人から人へ伝わる)

 

 何度かこのブログでも紹介した暁烏敏(あけがらすはや)に、著名な評論家の亀井勝一郎が仏教についてあれやこれやと語りつくしたときに、暁烏敏はそれを黙って聞きながら、最後に「あなたの仏教の師は誰かね」と聞いたそうである。

 亀井勝一郎は「それが私の課題です」とこたえたそうであるが、たぶん亀井勝一郎は師には巡りあわれなかったのではないかと思う。

 師のない仏法はない。仏法、誠の仏教の教えは書物によっては伝わりにくいものなのであろうと思う。

 親鸞は、弟子の一人も持ってはいないといった。浄土真宗では、同行という言葉を聞いたことがあるが、それは、阿弥陀如来への信仰を同じくし、同じく仲間として生きる者同士というような意味合いではないだろうか。

 紀野先生は、著名な仏教学者、仏教伝道者でもいらしたが、師と弟子という関係よりも、弟子のような存在にも、同じく仏教に帰依する我が友人とでもいったニュアンスで接していらした。

 先生の著書を読むと、私の若き友人という言葉が出てくる。その友人とは先生の真如の会員なのである。弟子ではなく、友人なのである。

 

 紀野先生の人生の生き方に大きく影響を与えたのは鎌倉円覚寺の朝比奈宗源老師と京都南禅寺の柴山全慶老師である。

 このお二人は紀野先生の師と言ってもいいだろう。

 このお二人の師には、紀野先生は何十回もひょっとして何百回もお会いになった。

 

 やはり紀野先生には「仏法のようなものは、師のような人を通じてしか伝わらない」という思いがあったのではないかと思う。

 だから紀野先生は、「私の話を直接聞きに来てほしい。私という人間を直接見て、聞いて、仏法に触れてほしい」という思いがあったのではないかと思う。

 

 紀野先生が主幹の真如会は、せいぜい数百名の会員で、それ以上に会員を増やすお気持ちがなかったようだ。

 先生が直接面倒をみられる範囲内の会員で十分であったように思う。

 それどころか、師が弟子を育てるならば、せいぜい数名の弟子で十分だとのお考えもあったようだ。

 晩年の先生の主催される集まりは、百騎の会で10名前後、東京や京都の例会で20名前後であった。

 新興宗教によくみられる会員獲得などの話しはまったくなかった。

 ただ一度「大切な話をしているのだから家族も誘ってきなさい」と言われたことがあるのを、私も記憶している程度である。

 そのせいか私は百騎の会には妻を連れていき、谷中の全生庵には子供を連れていったものだ。

 その後、妻と離婚することになったときに、先生に相談したが「別れなさい」ということだった。

 妻も先生にお会いしているし、私は、きれいさっぱり別れようという決断ができた。

 その時、先生が「同じ経験をしたものでないと、その苦しみはわからないよ」とおっしゃって、先生の頬が一瞬赤らんだ。

 私には、その意味がよくわからなかったけれど、数年後に、その意味を知って、やはり、何事も本当に理解するには、自分で経験しなければ、わからないということなのだとも思った。

 

 仏法は、経文を勉強し、数々の書物を読むことによって理解されるものではないということであろうと思う。

 逆に、道元が言うように悟るためには経文の一文字も知らなくてもよいということである。

 悟るには、お坊様でなくてもよいともいえる。

 おばあちゃんが「今日も、生きています。ありがたいことです」という。また「人生はなるようになる。大丈夫、心配せんでもいい」という。

 残り少ない人生で、人生を達観しているお年寄りも多いことであろう。

 

 そういうおじいちゃんやおばあちゃんに接すると、人はほっと安心するものである。

 この安心は、書物やインターネットでは味わえない安心である。

 

 残り少ない人生。年をとることによって、人生というものが見えてきているお年寄りも多いと思う。

 子供や孫に、人生は、どんな生き方をしようが、どんなことが起きようとも大丈夫だ、何とかなると伝えられるお年寄りは素敵だと思う。

 







※紀野先生88歳前後、私が54歳前後の写真 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。